2018年1月25日木曜日

バイオロゴスと聖書解釈の不協和音FB から一部抜粋、第二部

ID 論が科学としては立ち行かない理由を述べます、科学は導かれた結論から先を予測できると言うところに価値があります、研究者は焦点を絞り込み実益的な立証が必要だからです、秀のやしろ宇宙システムのように導かれた結論から表層的な光行差現象が重力を反映していると言う先を予測できる実益的な予測があります、これにより科学の方向性が低コスパで定まります、この様にダーウィン説は中間型を予測し役立てることができます。進化の強力な証拠として挙げられるのがマウスと人の遺伝的な配列の名残の共通性です、この様に隠れた因果関係は難易度が高いため大きく強調されないがゆえの理解不足により起こります、漸進的な過程により突然変異等により進化は還元不可能な複雑性ではなく実は還元可能なことが判りつつあります。私が現在管理しているバイオロゴスの命を見る観る看る診る視る集いの論説の続きである、何故、狭間の神に仕立てあげる考察が危険を孕んであるのかです、狭間の神は散々たる結果に終りました、聖書は歴史書でも無ければ科学の手引きでもないと言う認識を先ずは持って頂きたいのです地動説にしろ天動説にしろ、聖書は科学的な用語で説かれているわけではありません、読み手は素直に読むべき書物です。神の人類の手紙が人間同士の混乱を意図したものではないはずだからです。見ようによっては曖昧です、ですから素直に読むべきです、心の感じた視点で読むべきです、何故ならば誰にでも理解できる手紙な筈ですから、、そして人類の英知がこれを理解できる形で示されているはずです、誰にも解読不可能な意味を与える道理がありません、喩えばヨブ記には神は虚無に地を置いたとか、地軸を傾けた等は示唆を与えているかのように読み取れますが、あくまでも科学用語ではありません、ビグバンは天地創造を暗示していると言うのもどおかと思います。各々の解釈に委ねるべきですが決めつけるべきではありません、その後に科学的に覆るときに信仰が揺らいでしまうのは信仰者の方なのです。ですから決めつけて断定するのは危険なのです。確かに自然界の畏怖の思念は信仰の助けになります、が、、神を信じる理由は他にも沢山あります、道徳律などが主にあります。科学と信仰が何故融和を必要とするのか?それはお互いが足かせをなってしまっているからです。聖書の文章は幸い解釈の幅が広く長所でもあり短所でもありますが、流石に聖書です長所となります、解釈の幅が広い、とは分かりやすく合理的とも言えます、数学的に物理的に表現したら莫大な分量になるでしょう。詩的な寓話的な表現はこの場合合理的とも言えます、科学が進歩し究極的には規定の幅が揺らぐことなく固定された場合、時代に伴い聖書は変更を迫られることはありません、曖昧であるがゆえです。これも神の成せる業です。柔軟に解釈を加えて理解することができます。信じやすく後で失望するパターンと信じにくいが失望しないパターンと信じやすく失望しないパターンがある場合、最後のパターンが良いわけです。ですから科学を直視し、霊的な科学では説明が不可能な暗示や示唆によって導くことが大切と私は経験から思うわけです。

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